新型コロナウイルスの影響で、IDEOの日本オフィスでは3月末から在宅勤務がはじまった。最初のうち、私は在宅勤務の快適さを楽しんでいたのだが、2週間ほど経つと変化のない環境に対して徐々に疲れを感じ始めた。同じように疲れを感じている同僚も少なくなく、リモートワーク環境をより快適にする方法をぼんやりと考え始めるようになった。
そんな矢先に、IDEO Tokyoのメンバーからある話を聞いた。彼女の友人、藤井医師が、閉鎖的な空間で働く医療スタッフの精神的負担を軽減できるアイデアをSNS上で友人たちに求めている、という。
藤井医師は東京慈恵会医科大学附属病院の集中治療部(ICU)で臨床医として勤務しており、新型コロナウイルスが流行してからは、コロナの重症患者を診ている。ICUは、重篤な急性機能不全を抱える患者の命綱ともいえる、元来非常に緊迫感のある環境だ。日本でも重症患者が急増していた当時、藤井医師が特に課題に感じていたのは、新型コロナの重症患者の治療に当たる病室には窓がないことだった。時間の経過がわからず息が詰まるような環境で、終日防具を身に着けながら24時間体制で動き回る医療スタッフの体内時計は狂い、精神的疲労が溜まっていたのだ。また、昼夜が感じられない状況は、患者の治癒も遅らせるという。
医療スタッフが動けなくなれば医療崩壊が起きてしまう——そんな危機感を抱いた藤井医師は、状況を少しでも改善させるアイディアを求めて知人に呼びかけたというわけだ。
コロナ禍で人々が様々なストレスを感じている中で、緊急性が高く、人命に関わる医療機関における課題に対してデザインの力で何か手助けができないか。そうして立ち上がったのが、IDEOの有志が集まったプロボノプロジェクト「UTSUROI」だった。
今回のプロジェクトは、あらゆる面でいつものIDEOのデザインプロセスと異なっていた。通常であれば、私たちはまずユーザーと話しながら行動を観察し、発言の裏に隠れた想いを引き出すことから始める。しかし今回の対象ユーザーである医療スタッフは終日休みなく働いているため、インタビューに対応する時間がない。病院を訪れるなどもってのほかだ。私たちが連絡を取れるのは藤井医師のみであり、彼女も当然激務に追われているため、こちらもコンタクトを最小限に、かつメッセージアプリ上でのやりとりに留める必要があった。
また、環境の制約も多かった。ICUはとりわけ厳しい病院の設備要件にもとづいて作られており、天井の光を変えたり壁に何かを設置したりなど、既存の環境に手を加えるアイディアは実現不可能だった。唯一活用できたのは、患者と医療スタッフが共同で使っているiPadとBluetoothのスピーカーだった。
制約が多い時こそ、外部からのインスピレーションが大切になる。そこでチームは以前IDEOと一緒にプロジェクトを行った宇宙航空研究開発機構(JAXA)のメンバーに相談し、宇宙飛行士の山崎直子さんから直々にお話を伺う機会を設けてもらった。閉鎖的な空間で長時間緊張感のある仕事と向き合うという、類似環境での経験を聞かせてもらうためだ。
山崎直子さんとのセッションには、IDEOとの協業メンバーであるJAXA航空技術部門の保江かな子氏にもご参加いただいた。
地上約400km上空を周回する国際宇宙ステーション(ISS)は90分で地球を一周するため、時間の経過が人工的になってしまう。そこで山崎さんは実験で育てていたシロイヌナズナの成長から、視覚的に時のうつろいを楽しんでいたそうだ。
また、意図的に気分転換をする大切さも教えてくれた。山崎さんは昔よく聞いていた音楽や、雨などの自然音を聞いて地球との繋がりを感じる時間をつくることを心がけていた。ある船長はスピーカーから雷や風の音を突然流すことで自然界のランダムさを再現したという。
これらのインスピレーションを藤井医師からもらった情報と組み合わせることで、より方向性が定まった問いが生まれ、チームはオンラインツールを活用しながら他のデザイナーやJAXAのメンバーを交えたブレインストーミングを行った。
チームはオンラインツールを活用しながら、課題の制約を意識したブレインストーミングを行った。
いつもであれば、この段階では実現性をなるべく意識せずに多種多様なアイディアを量産し、整理して組み合わせる。そこで出てきた初期コンセプトをユーザーに見せて、フィードバックをもらいながら改善していく。
だが今回のプロジェクトは緊急性が高い上、ユーザーと直接対話することができない。紙に書いたアイディアに対するフィードバックをもらう時間はなく、とりあえず作ってからユーザーに見せることが大切だった。
チームはまずブレインストーミングで出たアイディアの中から実現性が高そうなものを選んでいった。既存のアプリで解決できるものがあれば藤井医師に紹介し、なければ簡易的なプロトタイプをつくってから提案した。求められていたのは、最低限の機能を搭載し、ある程度使いやすさも考慮したソリューションを1秒でも早く提供することだった。そのためにも、常に課題の本質を意識しながら、手を動かし、体験してもらえるカタチにすることが重要だった。
なかでも看護師に好評だったのが、iPad等の画面上で日本国内の様々な場所のライブカメラ映像を流しながら天候に合わせた背景音を再生する「ウェザーウィンドウ」というプロトタイプだ。1日の中で変化する空の色、人の動き、風になびく木々などの映像を1時間ごとに切り替えながら映し出しすというもの。ふとした時に視界に入れてもらうことで、時間の経過と外部とのつながりを感じてもらえればという願いを込めた。
「ウェザーウィンドウ」は、iPad等の画面上で日本国内の様々な場所のライブカメラ映像を流しながら、天候に合わせた背景音を再生する。
窓のない部屋にバーチャルの窓をつくるという、お題に直球で答えたシンプルな提案だったが、早速使ってもらった医療スタッフたちからは、次のような喜びの声が寄せられた。
「夕方になるにつれてビルに落ちる影とか空の色が変わるのが見えて、時間の感覚が窓がある部屋にいる時とほとんど変わりませんでした」
「山の中だったり電車が通るところだったり、ふと目をやるとわずかでも気分が変わって、呼吸も意識したりするようになりました」
もちろん、改善に向けたフィードバックもあった。例えば「長野の観測所からの映像が、曇りの日だと空が真っ白で寂しい。もっと短時間で映像が切り替わると嬉しい」、「ハワイやモルディブなど海外の映像も見れると嬉しい」といった意見だ。
普段のプロジェクトであれば、ここで彼女たちの意見の裏に隠れた想いを考察していく。インタビュー対象以外にも大勢のユーザーがいることを前提に、より本質的なニーズを汲み取るためだ。また、新規性を追求するため、アプリ内の動きや機能に捻りを加える方法も考える。
このプロジェクトでも、フィードバックを熟考したり、ユニークさを求めるあまりに「なくても良い」機能を考えてしまう瞬間もあった。しかし今回は閉鎖的な空間で長時間勤務する医療スタッフという特定されたユーザーがいて、時間の経過が感じられない状況を改善することが最優先の課題だった。そのため、いつもの進め方に固執せず、デザイナーとしてのエゴを捨て、オーダーメイドのアプリをつくる感覚で彼女たちの意見を愚直に改善へ反映していった。
現在、藤井医師はプロジェクターを使って、患者も見える位置にウェザーウィンドウを投影している。看護師からは「本当に窓みたい」、「世間から取り残されている感じがしなくてとてもいい」といった声が届いている。
ウェザーウィンドウは医療スタッフの精神的負担を少しでも軽減させることを目的とした、ひとつのプロトタイプだ。同時に今回のプロジェクトで見えてきたのは、医療現場には今回のように見過ごされている課題が潜んでいるということだ。ほかにもデザインの力で迅速に手助けできる領域があれば引き続きサポートしていきたい。
午前11時前でも夜中のような雰囲気のICU内の壁に投影されたウェザー・ウィンドウ。バーチャルな窓から見える明るい銀座の街角の様子が、医療スタッフに時の移ろいを知らせる。
振り返ると、制約が多く緊急性が高いからこそ課題の本質から目を逸らさずに、初期からユーザーを交えてプロトタイプを共創する参加型のプロセスが自然と成り立っていたのだろう。
私たちはいつだって人間中心デザインの基本に立ち返り、誰かが直面している問題に対して正面からぶつかりにいくことを忘れてはならない。
IDEOチームの皆さんのおかげで、閉鎖空間で働いている人の苦痛が軽減されています。また、”自分たちのことを真剣に考えて応援してくれている人がいる”と感じられることも、スタッフの大きな精神的サポートになっていると思います。本当に感謝しています。
藤井智子医師, 東京慈恵会医科大学附属病院 集中治療部 診療副部長
※ 2021年5月、東京慈恵会医科大学附属病院は、集中治療部の2020年度のアニュアルレポートを発表。本プロジェクトについて、「医療スタッフの閉鎖空間におけるストレス軽減」というテーマでご紹介いただいています。